ドイツ脱原発の源を探るドキュメンタリーシリーズ①

核分裂過程 再処理工場を止めた人々

建設予定地にて

ドイツを脱原発へと転換させるきっかけとなったヴァッカースドルフのたたかい。
核燃料再処理工場の建設に反対する人々を描くドキュメンタリー。

●ドイツ南部、バイエルン州にヴァッカースドルフという緑豊かな小さな村がある。 1985年、この地が使用済み核燃料再処理工場の予定地とされた。
森の樹々が無残に切り倒されるのを目にして、保守的と言われてきた村人たちが立ち上がる。やがて若者が全国から集まってきた。
建設予定地の森に「丸木小屋村」が作られ、村人と若者達による創意あふれる運動が繰り広げられる。

しかし森は剥ぎ取られ、内と外を分断する「鉄柵」が張り巡らされる。抵抗する人々に対して州政府はCNガスや催涙剤入りの放水を浴びせた。
村人は闘う中で自らの殻を破り、民主主義の在り処に目覚めていく。

1986年、チェルノブイリ原発事故を経験するとさらに広範の人々が反対運動に加わってくる。
デモ禁止にもかかわらず、鉄柵の周りに数万人の人々。しかし建設は強引に進められる。
無力感と嘆き、絶望的な状況・・・・
けれども映画はそれを跳ね返す。未来に向けた意志、あらゆる想像力を喚起して。

LEBEN OHNE ATOM 原子力なしの暮らし
Die WAA gefährdet unser Leben!
再処理工場WAAは僕らの命を脅かす!
Die Regierung ist damit einverstanden  政府は同意してるけど
Unsere Eltern nicht! 僕らの両親は断固反対だ!

原題:SPALTPROZESSE /1987年/ドイツ/95分
監督:Bertram Verhaag & Claus Strigel ベルトラム・フェアハーク&クラウス・シュトリーゲル
音楽:ウルリヒ・バッセンゲ、ヴォルフガング・ノイマン
歌 :Rio Reiser “Der Traum ist aus” リオ・ライザー「夢は終わりだ」
   Konstantin Wecker “Der Baum” コンスタンティン・ベッ カー「樹」
制作:DENKmal-Film デンクマール・フィルム

●映画の完成から2年後、1989年、ついに再処理工場の建設は中止された。

news!
 2023年11月25日(土)12:45~
 大阪ドーンセンター1Fパフォーマンススペースにて上映
 詳細はこちら

 

「SPALTPROZESSE 核分裂過程」はどう見られたか
 受賞歴

主な受賞歴(1987年)

ライプチヒ映画祭 銀鳩賞
ミュンヘン市ドキュメンタリーフィルム賞 ドイツ青少年ビデオ賞(卓越した記録映画制作において、人間すなわちこの地方の住民の変容と、自然風景の変化を描いている。)
国際青少年映画審査の奨励賞(再処理工場によって引き起こされたヴァッカースドルフ住民の変化を特筆すべき質で印象深く記録した。)
ドイツ映画批評賞(観客に対しヴァッカースドルフ再処理工場をめぐる議論に対する卓越した情報を、説得力を持って提示した。映画は、個人の意識の過程を細やかに表現することによって、一地方全体の住民の生存を賭けた闘いを共感をもって示した。)コミュニケーション文化協会賞(メディアにおける啓蒙、メディアの政治分野への関与に対してメディア啓蒙賞が与えられた。)
1987年最優秀記録映画(「epd-フィルム」の読者審査会は最優秀ドキュメンタリーに選んだ。)

建設予定地を取り囲む警察隊
「民主主義は住民から始まるものでしょ」イルムガルト・ギートル(主婦)

映画の背景   

見る前に知っておくとよくわかるキーワード

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ヴァッカースドルフ Wackersdorf

 ヴァッカースドルフはドイツ(旧西ドイツ)のバイエルン州オーバープファルツ地方(県)にある緑豊かな小さな村。チェコやオーストリアの国境に近い。1985年、ここに再処理工場が建てられることになった。
再処理工場とは、原発の使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出す工場。事故が無くても日常的に大量の放射能を含む排気を空に、廃液を海に流す。日本では六ヶ所村に建設されているが、最終試験段階でトラブルが続き、稼働が延期され続けている。ヴァッカースドルフは内陸なので、廃液はドナウ川の支流に流す予定だった。
 1970年代半ばから西ドイツの再処理工場建設計画は何度も出されてきたが、そのたびに非常に大きな反対運動によって断念された。11番目に最後の候補地として選ばれたのがヴァッカースドルフだった。オーバープファルツ地方の人々は保守的で反対運動は起こらない、というのがその理由だった。


丸木小屋村

1985年、建設予定地の森で根こそぎの伐採が始まると、4万人もの人々が反対デモに集まった。この時、たくさんの小屋やテントからなる「丸木小屋村」が森の中に作られた。全国各地から集まっって来た人々と地元の人々が交流し、一緒にたたかった。

WAA NEIN 再処理工場反対

シュトラウス

バイエルン州は保守の牙城と言われる。その州首相であり、キリスト教社会同盟(CSU)の党首でもあるシュトラウスが、再処理工場を強引に誘致した。彼は西ドイツの初代原子力大臣(1955年)で、核利用の強力な推進者。

シュトラウス州首相

シュイーラー郡長

ヴァッカースドルフの属するシュバンドルフ郡の郡長。住民の7割の支持を得て、工場建設に反対している。
郡長は建設許可の権限を持っていたが、州政府は「対シュイーラー法」を作ってその権限を奪った。

●チェルノブイリ原発事故

1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発(旧ソ連・ウイクライナ)の事故は、ヨーロッパにも放射能汚染をもたらした。チェルノブイリから1300kmの距離にあるバイエルン州は放射能の雨により特に深刻な被害をこうむった。これ以後、再処理工場反対の運動は広範に広がった。

●抗議のミサ・抗議の散歩

建設予定地の周りはデモ禁止区域にされた。そこで人々は隣接する森の中に礼拝所を設け、毎週日曜日にそこで「ミサ」を行った。して工場敷地の周りを「散歩」して抗議の意思表示をした。少ないときは数十人、多いときは数万人の規模になった。

監督インタビュー

●なぜ、この映画を作ろうと思ったのですか?

ベルトラム・フェアハーク:私達はいろいろな物事の変化、特に人間の変化の過程を観察し、それらの発展の様子をフィルムに収め、そしてそれらを理解しやすいものにする事に関心を抱きながら、長期間にわたって記録作業をしてきました。私達はかつて社会学的記録映画という形式を借りて問題に取り組み、探求していたのですが、それらの作品よりももっと我々一人一人を引きつけ、政治的にも更に意義のある主題を2年前から探し求めていました。
 1985年2月、核燃料再処理工場がヴァッカースドルフに立地することが最終的に決定されたとき、私達にはすべてのことがはっきりしたように思われました。反核運動の高まりの中で横暴にも西ドイツに核燃料工場建設が企てられることが持つ重み、静かな田園地帯に巨大な開発プロジェクトが立地されるという事、それらの事態は私達自身が政治的に取り組むべき事と合致したのです。そして、政治と関わっていく上で、これから先10年の建設期間に起こるであろう、人間や自然環境や政治の変化を映画に記録していくのに必要な忍耐が続くよう望んでいます。

●「鉄柵」が視覚的にも音楽的にも中心的な役割を果たしていますが・・・

クラウス・シュトリーゲル:工場敷地の「鉄柵」そのものは、それほど害のないものです。ところがこの鉄柵は、世界で建造された中でもっとも高価で頑丈というだけではありません。それは自動発射スプリング・ガン装置を必要としていて、この鉄柵が有する本当の理由は明らかです。それは実際のところ「境界線」です。単にこの特殊な事業を住民から防御することを目的としているのではありません。

それはドイツ連邦共和国の真ん中を走る国境です。国家権力、原子力産業のロビイスト、進歩を信じるだけで何ら憂慮しない人たち、西ドイツの核武装を主張する人たち(少なくともこれを示す徴候はたくさんあります)、彼らはこの鉄柵の内側にいます。そして外側には、無力な怒りにとらわれた、利益を得ることのない人々、放射能漏れに長期間さらされるために健康が損なわれるのではないかとおそれる人々、今や疑い深くなった人々が立っています。推進側は初めは多彩な方法で支持を取りつけていたのですが、ついには事業をもっと強引に押し進める手段がとられるようになって、このことがはっきりとしてきました。この境界線は、核燃料サイクル工場が計画された地域にのみ敷かれているのではありません。体制や政党や労働組合や教会の真ん中を貫いているのです。境界線の双方では一様に仲間を集めようと、今なお多くの人々が懸命に努力しています。『核分裂過程』はこの鉄柵の存在に強く異議を表明しているので、多くの人々は、以前なら夢にも思わなかったような見方をするようになります。この鉄柵はそんな状態に対して抗議するための目標、何か「嘆きの壁」のようなものになりました。
 この種の観念は、出来事や見たことをそのまま時を追って語っても伝えることはできません。そこで私たちは、純粋なドキュメンタリーの手法では描くことのできない、現地で見出した一連の関係を明瞭に説明する視覚的で音響的な表現手段を探しました。その結果、取材した素材を編集し、処理するに際して、私たちは、未来と現実との境界に横たわる領域にあえて踏み込みました。デモの参加者が鉄柵の棒を打って出したオリジナルの音は、こうしてこの映画音楽のリズミカルなライト・モティーフ(示導動機)を作るのに使われたのです。

●テレビの取材班はデモを撮影するのが困難になり、実際に撮影が妨害されたことが度々あったと聞きますが・・・ 

クラウス・シュトリーゲル:はじめは私達も、テレビ報道が現地の人々にもたらした不信感をひどく感じました。オーバープファルツ地方の人々は、もともと彼らの恐れや意見や経験が報道されることを強く希望していました。しかし、彼らが言わんとする事はテレビで見せるほどの報道価値はなく、また適切でないとされたのです。彼らの意見は抑圧されるか、もしくは論評によって、あるいは紹介のされ方によって、意図するところが歪められました。オーバープファルツの人々が全精力をかけて行った様々な大衆行動の後で放送番組から聞かされるのは、すべて「国中からやってきたアナーキスト」についての言及でした。報道は現地の人々の体験を跡づけてはいなかったのです。メディアと接した経験から「騒ぎを除いて報道価値はない」ということを多くの人々が口にしました。
 その結果、カメラを持って現場に現れるとすぐに、私達もまた彼らの不信やあからさまな敵愾心を感じるようになりました。バイエルン放送(BR)や第2ドイツTV(ZDF)が放送された後ではひどかったものです。長期間の交渉を経て、人々が撮影されるのを許すようになるように準備してきました。しかし、彼らは「どうせまた全部カットされるさ」と嫌味なことを言っていました。とても長い過程を経て、やっと私達は彼らの信頼を勝ち得たのです。

(以上は、映画発表当時の英語版資料より。「核分裂過程」の上映を実現させる会・訳)

デンクマール・フィルム DENKmalーFilm とは 

 1977年、ベルトラム・フェアハークとクラウス・シュトリーゲルによって設立されたドイツ・ミュンヘンにある映画製作会社。原子力と民主主義を問う『核分裂過程』(1987年)をはじめ、政治、環境、科学技術から人権問題まで、幅広いテーマでドキュメンタリー映画を制作してきました。近年はそれぞれ独立して、ベルトラム・フェアハークは遺伝子組換えと農業、クラウス・シュトリーゲルは、移民、労働などをテーマにした映画に力を注いでいます。

映画のその後 脱原発を決定したドイツ

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●ヴァッカースドルフ再処理工場建設中止までの歩み

1981年 「再処理工場に反対する市民の会」結成
1985年 再処理工場の立地がヴァッカースドルフに決定。数万人規模の反対デモ。森林伐採。「丸木小屋村」の建設。
1986年 「鉄柵」完成。チェルノブイリ原発事故 
1987年 ★映画「核分裂過程」完成。
1988年  バイエルン行政裁判所が建設計画の無効を宣言。85万人の異議申し立て署名。 23日間にわたる公聴会。 州首相シュトラウス死去。
1989年 事業社VEBAが建設断念。州政府が建設中止を正式発表  

 ヴァッカースドルフでは、日曜ごとの抗議の「ミサ」と「散歩」、大規模なデモやフェスティバルなどの抗議行動のほか、建設差し止めを求める訴訟など、あらゆる方法で反対運動が粘り強くたたかわれた。1988年にはバイエルン行政裁判所が建設計画の無効を宣言。同じく88年には再処理工場に異議申し立てをする85万人の署名提出。また、州環境省の開いた「公聴会」には市民や科学者、医者、法律家など様々な立場からの発言が続き、23日間にわたる論戦になった。
 

 一方、工場建設は強行に進められ使用済み核燃料の貯蔵プール建屋まで完成したが、1989年4月、事業社VEBAはついにヴァッカースドルフ再処理工場の建設中止を発表した。

●建設中止の理由

 事業社VEBAはその理由を「経済的理由」と発表した。反対運動の高まりを受けて放射能排出の基準が強められたため、それを満たす施設を作ることは経済的負担が大きすぎると判断した。基準の緩いフランスのラ・アーグに再処理委託する方法をVEBAは選んだ。しかし事業者も政府も公言しないが、たゆみなく続く反対運動を抑えるために人的にも経済的にも大きな負担がかかっていたこと、反対世論が広範に広がったこと、裁判所が建設無効を宣言したこと、等は大きな原因だったはずである。そして建設を強引に進めてきた州首相シュトラウスが1988年に急死して政治状況が変わったことが決定的となった。

●脱原子力を選択したその後のドイツ

 その後ドイツは政治レベルでの議論が重ねられた末に、原子力発電そのものから段階的に撤退していく方向に政策を転換させてきた。ドイツ社会民主党と「緑の党」連立政権下の2002年には原子力法が改正され、原発の新設禁止、運転期間の制限、05年以降の再処理禁止、などが決められた。これはキリスト教民主・社会同盟と自由民主党による保守連立のメルケル政権にも受け継がれた。
 メルケル政権は2010年には、既存の原発の運転期間を延長することを決定したが、国民はこれに猛反発、10万人規模の反対デモが起きた。

●3.11後のドイツ

  2011年3月11日東京電力福島原発の事故が起きると、ドイツでは25万人もの人々が原発撤退のデモに参加した。メルケル政権はいち早く「脱原発」を表明し、2022年までに全ての原発を完全に撤廃することを決めた改正原子力法が同年7月8日に正式に成立した。
 事故以来、日本政府と東京電力が情報を公開せずに日が過ぎる中、ドイツ気象庁がシミュレーションした放射能汚染の広がりを示す地図がいち早くインターネットを通じて公開され、また、ドイツ放射線防護協会が被曝を最小限にするための提言を発表するなど、放射能に対して厳しい姿勢を貫くモデルを示し、日本の市民を助けた。こうしてドイツは、脱原発で世界をリードしている。

「核分裂過程」は日本でどう見られたか

●「核分裂過程」の上映実現まで

【出会いは偶然だった。】
 もう30年以上も昔のことだが、池袋の西武デパート最上階に「スタジオ200」という客席200個の小さなホールがあった。いつも商業ベースにとらわれない質の高い映画会やシンポジウムなどが企画されていた。1988年3月、そこで「ライプチヒ記録映画祭」の受賞作品特集が上映された。その中の一本が『核分裂過程』だった。ドイツで建設されている再処理工場に反対する人々を描いたドキュメンタリーだった。(日本語字幕は入っておらず、活動弁士の澤登緑さんが吹き込んだテープが同時に流された。)観客は全部で20人ほどだったが、たまたま友人4人でそれを見て大変な感動とショックを受けた。ぜひ皆に見せたいと思い、その場でフィルムを借りたいと申し出た。快諾を得てその年の4月、「原発止めよう2万人行動」の日の夜に上映する事ができた。チェルノブイリ事故の実態が日本に伝わり「原発止めよう」の声が各地にうねりのように広がり、「1万人行動」と呼びかけた日に2万人の人たちが日比谷に集まった日のことだ。その当日宣伝しただけだったが70人ほどが集まった。反響が大きく、ぜひ自分達も上映したいという問い合わせを受けることになった。しかし版権が日本にないのでフィルムはドイツに返されてしまった。そこで、自分達でフィルムを輸入し上映活動しようか、と考えることになった。

【1年後にフィルムを手にした。】
 7~8人のメンバーが集まって、どうやったら輸入できるのか、お金をどう集めるか、字幕を入れるにはどうすればいいのか、フィルム貸出の運営はできるか、などなど検討しあった。映画を仕事にしている者は一人もいなかった。初めてのことばかりで困難もあったが、青森県六ヶ所村に同じように再処理工場が建設されようとしており、是非とも上映を実現させたかった。「『核分裂過程』の上映を実現させる会」を立ち上げた。
 メンバーの1人がドイツに行き制作者に直接こちらの思いを伝えることができ、非営利上映権を得ることができた。なまりの強いバイエルンのドイツ語だからと、知り合いの日本人でドイツ語を教えている大学の先生も紹介してくれた。1989年3月、待望の16mmフィルムを手にすることができた。
 資金は、全国の反原発・脱原発のグループや個人から、上映債権という形でお金を借りた。(当時創刊された雑誌「DAYS JAPAN」に「脱原発運動日本全図」と題して1ページ、北から南まで何百もの団体名とその住所が紹介されていた。そこに全部手紙を送ってお願いしたところ、見ず知らずの方たちからも債権やカンパの協力をいただくことができた。)
 日本語字幕は自分達で制作した。「核分裂過程」には様々な年齢・職業の人物が登場するが、7人のメンバーがそれぞれ自分の魅かれる言葉を発する人物の字幕を担当した。
喧々がくがくと字幕制作に没頭している最中(1989年4月)、ドイツで再処理工場の建設が中止になったというニュースが入ってきた。そのニュースを携えて、映画の上映を開始した。1989年7月のことだった。

●たった1本の16mmフィルムが1年間に全国150カ所で上映された

 上映会にきて映画を見た人が、今度は自分たちで上映会を企画するというように、「核分裂過程」は連鎖反応のように全国で上映された。食品を考える女性たちのグループ、生協のグループ、脱原発の活動をしている人達、またこの映画を上映するためにグループを作った人達、映画の上映をするなんて初めてという人もずいぶんいた。
 たった1本のフィルムが1年間で150箇所くらい回った。(さすがに1本では対応しきれなくなり、1年後にもう1本輸入した。ほぼ2年間のうちに全国250箇所以上で上映された。)できる限り私たちメンバーも上映会に参加することにした。あまりの忙しさにメンバーの多くは失業し、嵐のように1年は過ぎた。実現させる会も「核分裂?」して、つまり地方に移り住んだり、新たな職に就いたりして、残った2~3人がその後の活動を続けた。

 その後、続編の「故郷のためにギートルさんたたかう」(1988年制作)、「第八の戒律」(1991年制作)を輸入。2007年からは、小林大木企画としてデジタル映像を輸入し、DVDによる貸出上映を始めた。(以上、小林・大木 記)

●寄せられた感想・アンケートより

*上映会ではいつもアンケートにびっしりと感想が書かれます。その一端を紹介します。

感想を表示

●核燃料再処理施設反対に立ち上がったヴァッカースドルフの人々に心から拍手を贈ります。緊張感溢れる構成力で、見る者をぐいぐいと画面に引き込んでいくすばらしい映画でした。本当の民主主義とは何か、報道機関はどうあるべきなのかをも問うている姿勢に共感しました。

●住民の言葉一つ一つが、心に響きました。六ヶ所村でも同じ現実があることに、何としても止めなくては、との思いを新たにしました。ガス弾(外国で使えば犯罪行為)の使用の場面、抵抗の場面には息をのむばかりで、ものすごい衝撃を受けました。私も頑張らなくてはと思います。言葉でうまく言い表せません。彼らに会いたい。

●しっかりと現実を撮った制作者に拍手!この映画を青森の人に、六ヶ所村の人に、いや日本全国の人々に見てもらいたいと思った。これは原発だけの問題ではなく、その国の政治に関わる事で、私たちはもっと真剣に考えるべき事であると、この映画を見て思った。ヴァッカースドルフの人々をそのまま日本人に置き換えて考えてみた。今の日本人にあれだけのパワーがあるだろうか?

●二本のフィルム*を見ながら、ひたすら涙が流れた。止まらなかった。まわりの女たちも泣きながら見ているのが、気 配でわかる。人々がどんなにNO!と言っても、国家は政治力とお金と暴力で無理矢理に物事を進める。どこの国でも何をする時でも、やり方は一緒。森の樹木を数秒で切り刻むのと同じように、抗議する人々を簡単に打ちのめす。他国に対して使えば、戦犯となるような毒ガスを人々に対して平然と使う。人々は何度も何度も、打ちのめされる。押し潰される。くやしい映像が続く。でも、私が泣いているのは、そのことではない。ひねり潰されても、あきらめない。くり返し、巨大な柵に向かう。その人々に泣いている。敗けつづけることは敗けではない。だって敗けるたびに人々は、私たちは、変わっていくのだから。自分の生き方、社会の生き方が、どんどんクリアになっていく。仲間と出会い、抗議行動に自らの表現が重なる。人が人として、女が女として、私が私として、生きる、その拠り所が、このフィルムにはある。気持ちのありったけで見てしまう。 (*「核分裂過程」と続編「故郷のために ギートルさんたたかう」)

●自分のために闘うことは人のためにも闘うことだということが、よくわかりました。だから地域でみんなが一つになれるのだと思いました。なんと勇気の起こる映画であろうか!現在は少数派であっても頑張りたい。愛しい孫たちのために。

●あの美しい森には再処理工場は似合わない。むき出しの地面がむごたらしかった。安全PRの仕方は日本とまるで同じでなんだかおかしかった。国や企業はなぜ人々を汚染して平気でいられるのか。ヴァッカースドルフは沼地が多いようだが地下汚染は大丈夫なのか。市民たちが抵抗している姿は自然ですばらしかった。(でも警察はこわい。)私は原発について以前から知っていたが、今はかえってそれが恥ずかしい。

●悲しいことに、この映画を見て、政府と一般大衆に対して疑問と不信を感じてしまう。あまりにも政府側と反原発(反再処理工場)側の見解が違いすぎているので、思わず反原発側の見解も本当に本当なのだろうか?と思ってしまうのだ。もし本当に反原発側の言っている数値が正しいのであれば、政府側の見解というのはあまりにとんでもない、でたらめになってしまう。それが国の考えなのだろうか?政府の人々は本当に自らの見解を信じているのだろうか? それとも本音と建て前なのだろうか? 一般大衆の人々も反原発側のいかにも恐ろしい見解をうのみにしているのではないか?この両者のギャップに思わず何が本当なのか、何を信じていいのか、わからなくなってしまった。私もまたカオーテン(混乱する人)になった気がした。

●自分が対立するどちらの立場にもなりうることがとても悲しい。核に限らず、人間一人一人がどう生きればいいのでしょう。みんな自覚が必要です。そのキッカケとなるこういう活動、期待しています。今日は貴重な体験をさせていただきました。

ヴァッカースドルフの現在 ギートルさんからのメッセージ

 ヴァッカースドルフ再処理工場は建設半ばで解体された。まだ放射性物質は運び込まれていなかったので、その跡地は工業団地に生まれ変わった。

 2017年に日本で「プルトニウム国際会議」が開かれた際、そのヴァッカースドルフの経験者の声を聴きたいということで、「核分裂過程」にも登場したイルムガルト・ギートルさんが招待された。しかし高齢で持病もあることから来日を断念し、代わりにビデオメッセージが上映された。撮影・制作したのは「核分裂過程」制作者の一人クラウス・シュトリーゲルさん。ヴァッカースドルフの現在の景観と、日本の私たちに直接呼びかけるギートルさんの言葉を紹介します。

「核分裂過程」自主上映会について

上映用DVD貸出し料

  1日2万円 (50人未満の上映会)
  1日3万円 (50~100人の上映会)
  100人以上の上映会についてはご相談ください。

お申し込み

1,上映しようと思ったら、先ずはお電話やE-mailで、ご希望ご予定を お伝えください。
2,「自主上映申込書」をお送りしますので、日程や会場など概要が決まりましたらご記入の上、FAXまたはメールや郵便でお送りください。         
 
Eメールご利用の場合は、必要事項をメール本文でお書きの上、件名を「核分裂過程 上映申込」と明記してお送りください。
中3日を過ぎても返信が届かない場合はご連絡ください。

DVDの発送・返却

原則として上映会の約1週間に到着するように発送します。事前に試写をしてください。
ご返却は、上映会の翌々日までに送り出してください。返却料のご負担をお願いいたします。

宣伝チラシや配布資料

チラシや写真のデータ(カラー・白黒)を提供いたしますのでご希望をお伝えくだ さい。
「映画の背景」や「映画のその後」などの資料をこのホームページよりダウンロードして、配布資料としてお使いいただけます。  

代金のお支払い

上映会終了後に「上映報告書」を提出していただきます。それに基づき、ご請求書 をお送りいたします。
上映会後2週間を目途に、指定口座にお振込みをお願いします。振り込み手数料のご負担をお願いいたします。